南三陸町長。59歳(2011年03月11日時点)。
南三陸町防災対策庁舎の屋上の鉄塔の一番高いところ(町長だからか?)にしがみついたため助かった。
災害支援目的で提供されたトレーラーハウスを私物化「寝タバコのため」
- 2011年06月 自宅敷地に持ち込まれる
- 本人の弁「自宅が狭く、(同居する)娘がたばこを嫌うので、1人で寝たばこをするために使っていた」
- 「自宅が狭く」…町長宅は平屋約50平方メートルの1DKで、母と長女の3人暮らし。十分とは言わんが広い方じゃね?
- 電気を自宅からつないでテレビも持ち込まれていた。完全私物化。
- トレーラーハウスを提供した公益社団法人「Civic Force」との間には「災害復興活動に関連する目的以外に使用してはならない」と定められている。
- 2011年09月17日 佐藤はトレーラーハウスの撤去を決めたことを明らかにする
参考
「寝たばこのためだった」南三陸町長 トレーラーハウス撤去へ
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宮城県南三陸町の佐藤仁町長が、災害支援目的で提供されたトレーラーハウスを自宅敷地に持ち込み、寝場所に利用している問題で、佐藤町長がトレーラーハウスの撤去を決めたことが17日、分かった。佐藤町長が明らかにした。撤去日はトレーラーハウスを提供した公益社団法人「Civic Force」と決めるとしている。
同町と「Civic Force」間で交わされた「使用賃借契約書」では「災害復興活動に関連する目的以外に使用してはならない」と定められているが、町長はこれまでの取材に「自宅が狭く、(同居する)娘がたばこを嫌うので、1人で寝たばこをするために使っていた」と説明していた。
町民からは「仮設住宅では家族が多いと台所や玄関で寝ている人もいる。その人たちにどう説明するのか」「テントで寝泊まりするボランティアのために使ってほしい」などとの声が相次いでいた。
トレーラーハウス内の電気は町長の自宅からつながれ、テレビも持ち込まれていた。町長によると、寝泊まり以外には記者対応などにも使っていたとしており、自宅敷地に置かれた6月以降、町長のほかに泊まった人はいないという。
町長宅は平屋約50平方メートルの1DKで、母と長女の3人暮らし。町長によると、食事などは自宅で取っていた。
[ 2011年9月17日 16:38 ]
南三陸町長が災害支援トレーラーハウスを「寝たばこ」に使用
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110917/crm11091717040011-n1.htm
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2011.9.17 17:03
宮城県南三陸町の佐藤仁町長が、自宅敷地に持ち込んだ災害支援目的のトレーラーハウスについて、「自宅が狭く、(同居する)娘がたばこを嫌うので、1人で寝たばこをするために使っていた」と説明、撤去を決めたことが17日、分かった。佐藤町長が明らかにした。
撤去日はトレーラーハウスを提供した公益社団法人「Civic Force」と決めるとしている。町長宅は平屋約50平方メートルの1DKで、母と長女の3人暮らし。
同町と同法人の間で交わされた「使用貸借契約書」では「災害復興活動に関連する目的以外に使用してはならない」と定められている。
トレーラーハウス内の電気は町長の自宅からつながれ、テレビも持ち込まれていた。町長によると、寝泊まり以外には記者対応などにも使っていたとしており、自宅敷地に置かれた6月以降、町長のほかに泊まった人はいないという。
(#^ω^)ピキピキ
南三陸のクソ町長、災害支援で提供されたトレーラーハウスを勝手に自宅へ 「寝タバコがしたかった」 2ちゃんねる瓦版
http://white0wine.blog10.fc2.com/blog-entry-3442.html より抜粋
14:名無しさん@涙目です。(大阪府):2011/09/17(土) 17:16:41.48 ID:pubCAz0c0
こいつ、NHKの取材の時も、あるきながらタバコ吸ってた糞町長だっけ?
24:名無しさん@涙目です。(旅):2011/09/17(土) 17:17:45.93 ID:MdyoFLv/0
鉄塔にしがみついてる若い奴を引き摺り下ろして自分だけ助かった町長だっけ
274:名無しさん@涙目です。(京都府):2011/09/17(土) 17:40:02.21 ID:Mg2+6xvs0
>>251
たしか町長と一緒にいたのは町の議員のはず。
ヒラの職員は高いところに登らせてもらえず
仕方なしに屋上の金網にしがみついていたが
津波で流されたと町長自身が言ってる。
南三陸町の記事
大津波15メートル、屋上の明暗 九死に一生 宮城・南三陸町長が語る
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110315/dst11031505490009-n1.htm
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2011.3.15 05:41
屋上に上がったのは避難ではなく、津波の様子を見るためだった。宮城県南三陸町。3階建ての防災対策庁舎を濁流が襲ったとき、町幹部と職員約30人が屋上にいた。第1波で約20人がさらわれた。残った10人はさらに押し寄せた7回の波に耐え、生き残った。
いまだに1万人の町民の行方が分からない。街路樹には地上から約15メートルの部分に漂流物がからみつき、3階建ての町営住宅の屋根には乗用車が乗っている。
11日午後。最初の揺れは佐藤仁町長が9日に起きた地震の話を挙げて町議会の閉会あいさつをしているときに起きた。横揺れに立っていられず、議場にいた約40人は机の下に身をかわした。
海辺の「南三陸ホテル観洋」のパート従業員、菅原つるよさん(65)は揺れがやんだ10分ほど後に海面が黒いことに気づいた。「養殖のワカメかと思ったら違った。水が引き、海底の黒い岩肌が見えていた」
引いた水が戻ってきたときの恐怖の光景を、生き延びた住民は「波が入り江で高さ20~30メートルの高さになった」「黄色い煙が上がり、壁のような黒い波が迫ってきた」と語る。海抜15メートルの場所にあった実家がのまれたカメラマン、三浦健太郎さん(33)のデジカメには午後3時26分撮影の記録が残る。
佐藤町長は約30人の職員と庁舎屋上に上がり、300メートルほど離れた高さ7メートル以上の水門を波が越えるのを見た。「尋常じゃない」と思えた波は屋上を洗い、全員に襲いかかった。
「10人が丈夫な手すりに引っ掛かった。残る人はネットフェンスの方に流され、しがみついたフェンスと一緒に、波が引いたら消えていた」と佐藤町長。10人は高さ5メートルの2本のアンテナによじ登った。「無理やりぶら下がった。おれたちだけでも助かるぞ、と職員を鼓舞した」。ずぶぬれの10人の下を波が何度も何度も過ぎていく。近くに住む町職員の自宅2階から、この職員の妻が流されていくのを「10人とも、この目で見てしまった」。
波がおさまり、3階に戻った10人はネクタイを燃やして暖を取った。「夢だよな…」と誰かがもらした。佐藤町長は、夜が明けるのが半分うれしく、半分怖かった、と振り返る。「助けが来るかも、との期待と、現実を直視しなければいけないという恐怖だった」
1960年に起きたチリ地震大津波で家を流された佐藤いち子さん(78)は、高台に建て直した家をまた失った。水はチリ地震の時よりも2キロも奥地に入り込んだ。だれも、ここまで来るとは夢にも思わなかったところまで。
防災放送の遠藤未希さん、遺体で見つかる
http://www.sanspo.com/shakai/news/110502/sha1105021140014-n1.htm
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2011.5.2 11:39
津波で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町で、津波到達の直前まで防災放送で町民に高台への避難を呼び掛け続け、自らは行方不明となっていた同町職員遠藤未希さん(24)とみられる遺体が2日までに、同町の沖合で見つかった。
母親の美恵子さん(53)によると、遺体は4月23日、捜索隊が発見。昨年7月に結婚した夫(24)がプレゼントしたミサンガが左足首に巻かれ、右肩にあざがあったことなどを、夫が遺体の写真で確認した。
遠藤さんは、昨年4月に危機管理課に配属。3階建ての防災対策庁舎の2階で地震発生直後から「6メートルの津波が来ます。避難してください」などと防災放送で何度も呼び掛けた。
庁舎に残った約30人の職員のうち助かったのは10人で、遠藤さんも行方が分からなくなっていた。津波にのまれた庁舎は骨組みだけが残っている。(共同)
2012年03月06日 町職員の2遺族が佐藤に対する業務上過失致死罪の告訴状を提出
上述の件もあるし、震災後の振る舞いがよっぽど酷かったんだろうな…とゲスパー。
南三陸町長を告訴 41人犠牲は「庁舎にとどまらせたのが原因」
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/03/06/kiji/K20120306002771520.html
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東日本大震災で宮城県南三陸町の防災対策庁舎にいた町職員ら41人が犠牲になったのは、佐藤仁町長が高台へ避難させず、庁舎にとどまらせたのが原因として、町職員の2遺族が6日、佐藤町長に対する業務上過失致死容疑の告訴状を宮城県警南三陸署に提出した。同署は内容を検討した上で受理するかどうか決めるとしている。
告訴状によると、佐藤町長は震災直後に災害対策本部を3階建ての同庁舎2階に設置。大津波警報が発令され、防災無線で高台避難が呼び掛けられる中、津波が庁舎屋上に押し寄せるまでの約45分間、町職員らを庁舎内にとどまらせたとしている。
遺族らは、町の地域防災計画の被害想定が1960年にあった「チリ地震津波」に偏り、同町で1240人の犠牲を出した「明治三陸地震津波」などの十分な検討を怠った点を問題視。さらに年1回の防災訓練が、勤務時間外の早朝にだけ実施されていた点などを指摘している。
一部の遺族は殉職職員家族会を結成し3回、公開質問状で当時の状況説明や謝罪を求めたが、佐藤町長はいずれも「想定外で判断ミスはない」と回答していた。
遺族の1人は「二度とこうした悲劇を生み出さないようにするためにも、責任の所在を明らかにする必要があった」と話している。
佐藤町長は取材に「告訴状の内容を見ていないので分からない」と話した。
[ 2012年3月6日 11:49 ]
犠牲職員の遺族が町長告訴=業務上過失致死容疑-宮城・南三陸
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012030600477
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東日本大震災の津波で宮城県南三陸町の防災対策庁舎にいた同町職員らが犠牲になったのは、佐藤仁町長(60)の対応に問題があったためだとして、町職員の遺族が6日、同町長について業務上過失致死容疑での告訴状を県警南三陸署に提出した。同署は、内容を精査した上で受理するかどうか検討するとしている。
同町によると、昨年3月11日、町は防災対策庁舎に災害対策本部を設置。その後、3階建ての屋上まで津波が押し寄せ、同町職員ら約40人が死亡した。(2012/03/06-13:34)
南三陸町長を告訴 町職員の遺族
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012030601001401.html
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2012年3月6日 17時17分
東日本大震災で宮城県南三陸町の防災対策庁舎にいた町職員ら41人が犠牲になったのは、佐藤仁町長が高台へ避難させず、庁舎にとどまらせたのが原因として、町職員の2遺族が6日、佐藤町長に対する業務上過失致死容疑の告訴状を宮城県警南三陸署に提出した。同署は内容を検討した上で受理するかどうか決めるとしている。
告訴状によると、佐藤町長は震災後すぐ、災害対策本部を同庁舎2階に設置。大津波警報が発令され、防災無線で高台避難が呼び掛けられる中、津波が庁舎屋上に押し寄せるまでの約45分間、町職員らを庁舎内にとどまらせたとしている
南三陸町長の告訴状提出 津波犠牲の職員遺族
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120306/dst12030618370010-n1.htm
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2012.3.6 18:36
東日本大震災の津波で南三陸町の防災対策庁舎にいた41人が犠牲になったのは、佐藤仁町長が高台に避難させなかったためだとして、町職員2人の遺族が6日、業務上過失致死容疑で南三陸署に告訴状を提出した。同署は「資料を精査して、受理するかどうか検討する」としている。
告訴状によると、佐藤町長は震災後、庁舎2階に災害対策本部を設置。大津波警報が発令されても、町職員らを庁舎内にとどまらせたとしている。
一部遺族は殉職職員家族会として公開質問状を佐藤町長に提出。防災担当ではない一般職員を高台に避難させず庁舎に集めた経緯などの説明を求め、マニュアルの不備を指摘したが、町長は「想定外で判断ミスはない」と回答していたという。
町総務課は「告訴状の内容を確認してから、対応を考えたい」とした。
南三陸町職員、助かったのはわずか10人…
http://www.sanspo.com/geino/news/20120307/acc12030705000000-n1.html
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2012.3.7 05:00
東日本大震災で宮城県南三陸町の防災対策庁舎にいた町職員ら41人が犠牲になったのは、佐藤仁町長(60)が高台へ避難させず、庁舎にとどまらせたのが原因として、町職員の2遺族が6日、佐藤町長に対する業務上過失致死罪の告訴状を宮城県警南三陸署に提出した。
南三陸町役場の職員では、防災無線で町民に避難を呼びかけ続けていた遠藤未希さん=当時(24)=や、交際していた男性と「大津波きた!!」などとメールのやりとりをしていた三浦亜梨沙さん=当時(24)=も、災害対策庁舎内に残って津波の犠牲になった。遠藤さんは庁舎内に、三浦さんは屋上にいた。
助かったのは、屋上に設置されたアンテナに上った佐藤町長や、手すりにつかまって津波を耐えることができた職員ら、わずか10人ほどだった。
(紙面から)
'12/8/25
退避判断、県警が捜査へ 南三陸町長への告訴受理
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201208250102.html
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東日本大震災の津波で、宮城県南三陸町の防災対策庁舎にいた町職員ら41人が犠牲になったのは、佐藤仁さとう・じん町長が高台に避難させなかったのが原因として、一部遺族が佐藤町長を業務上過失致死容疑で告訴、宮城県警が受理したことが25日、捜査関係者への取材で分かった。受理は20日付。
津波からの避難指示の有無をめぐり、民事裁判で争われるケースが相次いでいるが、警察による捜査着手が明らかになったのは初めて。
遺族らは、町の防災計画の被害想定が1960年の「チリ地震津波」に偏り、町で1240人の犠牲を出した「明治三陸津波」など過去の大津波を十分に検討していなかったと主張。
佐藤町長が震災直後に津波の浸水予想地域にあった同庁舎の2階に災害対策本部を設け、防災無線で住民に高台避難を呼び掛ける中、津波が来るまで約45分間、町職員らを庁舎にとどまらせたと訴えている。
告訴状は今年3月、町職員の複数の遺族が南三陸署に提出し、県警が受理を検討していた。