原発事故で避難生活の80代男性「私は東電を許します」
原発事故で避難生活の80代男性「私は東電を許します」
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2011.04.07 07:00
「まさか、本当にこんなことになるとは思わなかった。どんな地震が起きても安全だ、安全だといわれて、私たちもそれを信じてましたから」
国家公務員を定年退職後、福島第二原発に管理事務として再就職し、10年間働いたという80代の男性は、淡々とした口調でこう語った。第二原発は事故を起こしていないが、第一原発から20km圏内にあるため、男性の住む福島県双葉郡富岡町の住民たちは、郡山市にあるイベント会場で不自由な避難生活を送っている。しかし、「安全」という言葉を裏切った国や東京電力への怒りは、意外なほど感じられない。
「娘婿も、孫も東京電力で働いている。原発のおかげで町が潤ったのは事実。道路もよくなる、建物もよくなる。学校、図書館、公園、体育館、ほとんどの施設が原発の交付金で整った。何よりよそに出なくても地元で仕事があることがありがたかった」
男性の妻も、十数年にわたって原発で事務の仕事をしてきた。60才近くなって、20万円近い月収のある仕事は他にない。
「原発ができて、東京や横浜の都会に電力を送っているんだという自負は当然ありました。私は東電を許します。それで生活してきたわけですから」
そして、妻は自分にいい聞かせるように、こういった。
「これは天災だからね。天災に勝てる者はいないよ」
原発周辺の町や村の人たちは、ある人は原発で働き、ある人は原発で働く職員や外部労働者を相手に商売をしてきた。2006年から福島県の原発立地地域に足を運び、原発と社会の関係を調査してきた、東京大学大学院の開沼博さんはこういう。
「福島原発の地元では、住民の3~4人にひとりが原発関連の職種についています。それだけでなく、原発に出入りする弁当屋さん、保険代理店、近隣の飲食店などを含めると、1世帯にひとりは原発と何らかの関係を持って生活している。国が、東京電力がやっているから大丈夫という、“信心”にも似た安心感が地元住民のなかにはありました」
※女性セブン2011年4月21日号
福島原発避難民の中学生5人中5人「原発あった方がいい。」
【ワイドショー通信簿】「福島にやっぱり原発あってほしい」避難の中学生たち
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2011年04月20日11時59分
提供:J-CASTテレビウォッチ
福島原発の避難地域から、また別の「原発の町」である新潟県柏崎市に避難している中学生5人を番組は集めて、以前と似た町に暮らす不安や原発への思いなどを聞いた。「福島に原発があってよかったと思う人?」という質問には、5人全員がためらう様子なく、手を上げた。
「高校を出たら入りたいと思ってた」
父親がいまも第一原発で働いているという生徒は「お父さんのこともあるし、(原発が)あったほうがいい」と言う。「そこ(地元)では(原発が?)いい会社みたいな感じがあって、自分も高校を出て、入れるなら入りたいと思ってたから」と別の生徒。
友人の父親が原発で働いているという生徒は「原発の人ははやく直そうと頑張ってる。責めても早く直るわけじゃないから、責めないで見ていてほしい」と訴えた。
福島原発の事故を機に、原発の是非論も活発になっていますが――」とスタジオの笠井信輔アナ。「原発周辺の中学生には、生活のひとつとして原発があり、将来設計のなかにも原発があり、不安を抱えながらも、やはり必要だという考え方がありました」
ボンド柳生
24年前、小学6年生の少年だった大沼勇治さん「原子力明るい未来のエネルギー」
「原子力明るい未来のエネルギー」標語少年今35歳避難生活「明るい未来ではなかった」
http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001106220006 (リンク切れ)
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●作った少年当時小6→今35歳避難生活
「原子力明るい未来のエネルギー」。24年前、小学6年生の少年はそう信じ、双葉町の標語コンクールに応募した。
標語は町の商店街の入り口に掲げられ、現在も残る。
少年はいま35歳になり、同町から直線距離で約450キロ離れた愛知県で避難生活を送る。
「明るい未来ではなかった」。悔しそうに言った。
○つかぬ気持ちの整理 「明るい未来」頑張る
福島第一原発から4キロの町中心部に自宅がある大沼勇治さん(35)は、6月20日に長男勇誠(ゆうせい)ちゃんを出産したばかりの妻せりなさん(36)と、愛知県安城市の県営住宅に避難している。
標語の看板はいまも、道路を横断して掲げられている。震災後、テレビや新聞で見るたびに複雑な感情がわく。
双葉町民に「うしろめたい気持ち」も感じる。
大沼さんの記憶では、小学6年生のときに町が募集し、学校で「原子力」の言葉を入れて1人3案ずつ応募した。
「原発の恩恵を受けて町が豊かになると疑わなかった」。学校では、原発を宣伝する施設の見学に行った。
大学進学と就職で双葉町を一時離れたが、29歳で帰郷し就職。実家は標語看板の近く。誇らしかった。
サラリーマンの傍ら、3年前に看板のすぐ脇にある母の土地に2階建て4世帯分のアパートを建てた。
町で初のオール電化アパートにしたのも、原発を意識したからだ。「2世帯は『原発さん』に貸した」。
福島原発で働く人を「原発さん」と呼ぶ。「東電がある限り、この町は大丈夫」と思った。
だが、3月11日に震災が発生。せりなさんと2人で南相馬市に逃げ、車の中で夜を明かした。翌日、会社のある相馬市にいるときに原発の水素爆発が起き、妊娠中のせりなさんが放射能の影響を受けないよう会津若松市の実家へ避難した。
さらに逃げようと、愛知県の親類と連絡をとり、3月末に安城市の県営団地へ。
生活用品は団地や近所の人が提供してくれた。
しばらくは双葉町に戻れないと覚悟し、当分はここで暮らすつもりだ。
会社を退職し、失業保険で生活費をまかなう。
そんな状況でも、アパート建設と自宅のローン1500万円が残る。
「原発さんがいたからアパート経営もできた。でも、原発事故のせいでアパートも捨てないといけない」
まだ気持ちの整理がつかず、新しい仕事を探すことはできない。
切り替えるためにも早く一時帰宅したい。
結婚式の写真や指輪を持ち帰り、故郷に別れを告げ、新天地でスタートを切ろうと考えている。
避難生活を送る故郷の人たち、生まれたばかりの我が子を思い、いまはこんな言葉が浮かぶ。
「頑張ろう明るい未来へ双葉町」(神田明美)
26年目の訂正 「原発はいらない」 双葉町の標語考えた少年後悔
2012年7月18日 07時14分
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「原子力明るい未来のエネルギー」。福島県双葉町の中心街の入り口に掲げられた看板の標語だ。二十五年前、当時小学六年の大沼勇治さん(36)が町のコンクールに応募し、選ばれた。大沼さんは、一年四カ月の避難生活で「脱原発」を確信した思いを伝えたいと、今月十五日、一時帰宅した際、自ら標語を「訂正」した。
大沼さんは東京電力福島第一原発の事故後、身重の妻せりなさん(37)と地元を離れ、現在は愛知県安城市で避難生活を送る。町が原子力標語を公募したのは一九八七年。原発が町の未来をつくると信じた言葉が入選。第一原発から約四キロの自宅近くに鉄製の看板が電源立地交付金で建てられ、誇らしかった。
大学を出て就職などし、二十九歳で帰郷。不動産会社に勤める傍ら、看板の横にある土地にオール電化のアパートを建てて、東電社員にも貸していた。ずっと町の発展が原発とともにある「安全神話」を疑わなかった。
しかし事故後、町は警戒区域となり、全町民が避難。「平穏な暮らしが町ごと奪われた現実」にさいなまれ、テレビで標語が紹介されるたびに胸を痛めた。自らを責め悔いる日々から「原発の現実を話す権利はある」と考えた。脱原発を行動で示し、その姿を長男勇誠ちゃん(1つ)に将来伝えたいと思った。
夫婦が一時帰宅した今月十五日、記者も同行した。防護服姿の大沼さんはまず、標語にレッドカードを突き付け「退場」と叫んだ。その後、看板の手前で持参した画用紙を高く掲げた。すると、そこに書かれた「破滅」の二文字が「明るい」に重なり新しい標語が読み取れた。「原子力破滅未来のエネルギー」。二十六年目の訂正の瞬間だった。
大沼さんは「原発事故で故郷を奪われることが二度とあってはならない。日本に原発はいらない」と話した。 (野呂法夫、写真も)
(東京新聞)「破滅」と書かれた画用紙を看板の手前で掲げて、自ら25年前の標語を訂正した大沼勇治さん=福島県双葉町で
パフォーマンスとかわざとらしくてイラッとする。原発の甘い汁をすすれなくなったから今度はマスゴミに寄生先を変えたんだろうな~。
さすが、クズ揃いの双葉町の民。